
設計した家を、数年後に訪ねることがあります。
ある住宅で、ワンルームのLDKの一角の床を高く上げて、小さなセカンドリビングを設けました。家族がそれぞれ好きに過ごせる、もうひとつの居場所のつもりでした。本を読んだり、子どもが寝転んだり——そんな使われ方を、私はなんとなく思い描いていました。
久しぶりに伺うと、その場所には、ベッドが置かれていました。セカンドリビングは、寝室になっていたのです。
それを見て最初はちょっと戸惑いました。私の中には、寝室は扉で仕切られた個室であるべきだ、という思い込みがあったのだと思います。けれど住み手にとっては、家の中で一番落ち着くのが、その場所だったのでしょう。だからそこで眠るようになった。ただ、それだけのことでした。
その時ふと思ったのです。固定観念に縛られていたのは、住む人ではなく、設計した私の方かもしれない、と。
それはその家だけのことではなかった
はじめは、その家だけのことだと思っていました。けれど設計を続けるうちに、似たような出来事に、何度も出会うようになります。
ある家族は、夏と冬で、寝る場所を変えていました。夏は風の通る涼しい1階、冬は暖かさの集まる2階。季節がめぐるたびに、寝室が家の中をゆっくり移動していくのです。図面の上では、寝室はひとつの部屋として書かれています。けれど暮らしの中では、寝室という機能は、その時いちばん心地よい場所へと、自然に動いていました。
別の住宅では、夜勤の多い方から、寝室に窓をつけないでほしい、という要望がありました。一般論で言えば、寝室には窓があった方がいい。朝の光で自然に目が覚める——そう考えるのが普通です。けれど昼に眠り、夜に働く人にとっては、その普通は、むしろ眠りを妨げるものでした。暮らす時間が違えば、心地よい場所も、必要な空間も、変わってくる。
そう考えると、ひとつのことに気づきます。暮らし方が変わっていくのは、例外ではないのだ、と。家族構成も、仕事も、年齢も、季節さえも、絶えず変わっていきます。むしろ、変わらない方が不自然なのかもしれません。
変化は、自然なことというより、必然なのだと思うようになりました。
決めていたのは私の固定観念だった
私は図面を描くとき、いつも部屋に名前をつけます。寝室、リビング、書斎、和室。そこでは、それぞれの部屋に役割が決まっています。けれど住む人は、その名前を、それほど気にしていないのかもしれません。
寝室と名づけた部屋が、書斎のように使われる。セカンドリビングが、寝室になる。設計者が、ここはこう使う場所だ、と思っていても、人は、自分がしっくりくる場所を選んでいきます。
——人は、部屋名どおりには暮らさない。
そう気づいた時、私は住む人に教えられた気がしました。窮屈だったのは、住む人の暮らしではなく、設計者である私の頭の中でした。寝室には窓を。トイレには扉を。夫婦は同じ部屋で。そうした、こうあるべき、をいつのまにか信じて疑わなかったのは、私の方でした。
住む人は、私が思うよりずっと自由で、創造的なのです。
では設計者は何を決めるのか
ここまで読んで、こう思う方がいるかもしれません。住む人がどう暮らすか分からないのなら、設計者は何も決めなくていいのではないかと。
そんなことはありません。私は、決めることをやめたのではなく、決める場所が少し変わったのだと思っています。
寝室へと変化したセカンドリビングを思い出します。私はあの一角を、壁で囲んだわけではありません。床を1.2メートルほど高く上げただけです。同じひとつの空間でありながら、そこだけ少し違う空気が流れる。床のレベルを変えることで、まわりとは性格の違う場をつくろうとしました。
天井の高さ。も差し込む光。素材の手触り。窓から見える風景。そこに座った時の視線の高さ。空間の質については、細かなところまで考えて決めています。
でも、その場所を何に使うかは決めませんでした。読書をするかもしれない。昼寝をするかもしれない。子どもの遊び場になるかもしれない。そして実際には、寝室になりました。
私が決めたのは、家の中に少し性格の違う場所を用意することです。その場所を、家の中でいちばん落ち着く場所だと感じたのは、住む人の方でした。

私は最近、設計とはそんなものなのかもしれないと思っています。
空間の質は設計者が整える。けれど、その場所がどんな意味を持つのかは、住む人が暮らしながら決めていく。
決めないことと、何も決めないことは違います。むしろ逆で、暮らし方を住む人に委ねるほど、空間の質の方は、ていねいに決める必要がある。
どんな使われ方をしても崩れない、確かな性格を、その場所に持たせておく。おおらかに見える空間ほど、その奥では、設計が緻密に効いているのだと思います。
それを包容力と呼んでみる
空間の質は整えて、暮らし方は住む人に委ねる。そんなふうにつくられた場所には、ある種のおおらかさが宿るように思います。
住む人が思いがけない暮らしを持ち込んでも、それを静かに受け止める。——そういう空間のことを、私は最近、包容力のある空間と呼んでいます。
以前にも、包容力について書いたことがあります(→「包容力ある空間を実現する」)。そこで書いたのは、モノに対する包容力でした。旅先で買った民芸品も、子どもの描いた絵も、テイストの違うものが置かれても、空間の雰囲気がブレない。そんな空間のことです。
今回の包容力は、それとは少し違います。モノではなく、暮らしそのもの。そして、時間とともに変わっていく暮らしを、受け止める力です。セカンドリビングが寝室になっても、寝る場所が季節で移っても、それを受け止められる。同じ包容力でも、こちらは時間の側の話なのだと思います。
そして、書きながら、ひとつ気づいたことがあります。
空間に包容力を持たせるために、本当に必要なのは、空間の自由度ではないのかもしれません。設計者自身の包容力なのだと思います。
自分の価値観を、絶対の正解だと思い込まないこと。人は変わっていくという当たり前を、忘れないこと。そして、住む人は、私の想像を超えて暮らしを発明していく——その力を、信じること。
空間の包容力は、設計者の包容力の上にしか生まれないのかもしれません。
家は住みながら自分のものになる

少し、ご自分の家を思い浮かべてみてください。
図面では別の名前がついているのに、いつのまにか違うふうに使っている場所はありませんか。なんとなく座ってしまう椅子。家族が自然と集まる一角。誰かに決められたわけでもないのに、気がつくと体が向かっている場所。
それはたぶん、あなたが、暮らしながら見つけた——あるいは、発明した——居場所です。
設計者が図面に書いた名前より、あなたがそこで過ごした時間の方が、ずっと正直です。家は、住みながら、少しずつあなたのものになっていきます。
私にできるのは、その場所が生まれる余白をていねいに用意しておくことくらいです。そこにどんな暮らしが生まれるのか。正直なところ私にも分かりません。でも、住む人は、いつも私の想像を少しだけ超えていきます。だから、私はそれを少し楽しみにしています。