「なんとなく落ち着く」——その感覚に、名前をつけるとしたら
家に帰って玄関を開けた瞬間、ほっとすることがあります。休日の朝、気がつくといつもの場所に座っていることがあります。天気の良い日に、ふと昼寝をしたくなる場所。本を読む時に、なぜか選んでしまう椅子。
理由はうまく説明できないけれど、その場所には、その時の自分の気持ちに合う何かがある。その説明しにくい場の雰囲気を、ここでは「空気感」と呼んでみたいと思います。

なぜか、いつもそこにいる
帰宅して玄関を開けた瞬間、ふっと気持ちがゆるむことがあります。理由を聞かれても、うまく答えられません。けれど確かに、外にいた時とは違う何かを感じています。
休日の朝も、似たようなことが起きます。まだ眠い頭で、気がつくといつもの場所に座っている。誰かに決められたわけでもないのに、自然とそこに体が向かう。
天気の良い日には、ふと昼寝をしたくなる場所があります。本を読もうとすると、なぜか選んでしまう椅子があります。木の香りに、足裏に触れる床の感触に、なんとなく安心することもあります。
どれも、頭で考えて選んでいるわけではありません。気がつくと、そうしている。
うまく言葉にできないけれど、その場所には、その時の自分に合う何かがあるのだと思います。
人は機能だけで暮らしているわけではない

こうした感覚は、家の性能や使いやすさとは、少し違うところにあるように思います。
もちろん住宅には、機能が必要です。雨風をしのぐ。暑さ寒さから身を守る。食事をして、眠る。家事がしやすく、収納があり、断熱や耐震の性能が備わっている。どれも欠かせないものです。これらが整っていなければ、安心して暮らすことはできません。
ただ、機能はいわば暮らしの土台です。土台が整ったその上に、もうひとつ、別の豊かさがあるように思います。人は機械のように暮らしているわけではないからです。
疲れて帰る日があります。嬉しい日があります。家族と話したい日もあれば、一人になりたい日もある。何も考えずに、ぼんやりしていたい日もあります。
暮らしには、効率だけでなく、遊びや余白も必要なのだと思います。人は、その日その時の気分を、住まいのどこかに預けながら暮らしているように思うのです。
人は空間に感情を託している

では、人は住まいのどこに、気分を預けているのでしょうか。
その時の気分や感情に合わせて、人は知らず知らずのうちに場所を選んでいます。
疲れて帰った日には、少し暗く、落ち着いた場所に身を置きたくなります。つい座ってしまう椅子や、ごろりと横になりたくなる場所は、たぶんそういう時に体が選んでいるのかもしれません。反対に、気分を切り替えたい時は、明るく開けた場所に出たくなる。一人になりたい時は、どこか囲まれた場所へ。家族と話したい時は、自然とリビングやダイニングに集まる。
意識して選んでいるというより、体が向かっている、という感覚に近いかもしれません。
人は空間に、その時の感情を預けながら暮らしている。だからこそ、家の中には性格の違ういくつもの居場所が必要になるのだと思います。このことは、以前、家は、小さな居場所の集まりでできているという記事でも書きました。
だから、空気感が必要になる

その、性格の違いとは、何でしょうか。明るい居場所と、暗い居場所。開けた居場所と、囲まれた居場所。同じ家の中にありながら、それぞれの場所には、違う雰囲気が流れています。
その場所ごとの雰囲気を、私は空気感と呼んでいます。
なんとなく落ち着く。ここにいると安心する。気持ちが切り替わる。つい長くいたくなる。——そうした感覚を支えているのが、この空気感です。
機能を満たすだけなら、暮らしは成立します。けれど、それだけでは届かないものがある。だから私は、住まいの性能と同じくらい、その場所の空気感を大切にしています。
設計者は何を調整しているのか
では設計者は、その空気感をどうつくっているのでしょうか。
設計者が扱っているのは、壁や床や天井だけではありません。実際には、その場所で人が何を感じるかを想像しながら設計しています。
明るさや暗さ。広さや天井の高さ。視線の抜けや、包まれ感。足ざわり、手触り、素材の質感。音の響き方や、香り、温度の感じ方。
どれも単独で効くわけではなく、いくつもが重なり合って、ひとつの空気をつくっています。ここでは、そのうちの空間と光のことを中心に書いてみたいと思います。
ただ、これらは目的ではありません。
大きな窓をつくることが目的ではない。無垢材を使うことが目的でもない。天井を高くすること自体が目的でもありません。その結果として、どんな空気感が生まれるのか。そこにいる人が、何を感じるのか。大切なのは、その先にあるものです。

たとえば、外から帰ってきた時の安心感。これを、玄関のつくり方で整えることがあります。
窓のない、天井の低い、やや暗めの玄関を一度くぐる。その先に、大きな窓と高い天井のある明るいリビングが広がる。外と内をいきなりつなげるのではなく、間にどちらでもない場所を挟む。その緩衝帯を通り抜けることで、外との距離が生まれ、内側の安心感が立ち上がります。
ある住み手の方は、それを「トンネルをくぐって、別の世界に入るような感じ」と話してくれました。

光のあつかい方も同じです。朝の光を、大きな窓で全部見せるのではなく、縦長の窓で少しだけ切り取る。見える量を絞ることで、かえって窓の外の木々や、季節や、その日の天気が、いきいきと感じられることがあります。
休日の朝、気がつくとその窓辺に座っている。そんなふうに、自然と人が向かう場所になることがあります。
明るく開放的な場所は、多くの情報が入ってくる場所です。少し暗く囲われた場所は、情報が整理されて、気持ちが落ち着きやすい場所です。色数を減らす。視線を整える。音をやわらげる。それも、空気感を整えるための手段のひとつです。
設計とは、空気感をつくる仕事
こうして並べてみると、設計者の仕事は、ずいぶん細かなことの積み重ねに見えるかもしれません。確かに設計者は、壁や床や天井を、ひとつずつ決めています。窓の大きさも、素材も、天井の高さも。
けれど、それらは目的ではなく、手段です。本当に整えようとしているのは、その先にある、その場の空気感です。
ただ、ひとつ気をつけていることがあります。設計者がすべてを先回りして決めてしまうと、長く暮らす家では、かえって窮屈になることがあります。その日の気分も、体調も、毎日違うからです。だから、過ごし方まで決め込まずに、いくつかの場所を用意して、選ぶ余地を住む人に残しておく。
そして、もうひとつ。これは気をつけているというより、設計者にはどうしてもできないことなのですが。空気感は、設計によって整えることができます。けれど、そこで生まれる居心地までは、決めることができません。同じ空気感の場所でも、疲れている日と元気な日とでは、感じ方が変わるからです。居心地は、空間と、住む人のその時の状態が、重なったところに生まれるのだと思います。
設計者にできるのは、居心地そのものをつくることではなく、居心地が生まれる余地を残しておくこと、なのかもしれません。
設計とは、モノをつくる仕事であると同時に、そこに流れる空気感を整える仕事でもあります。