——木を見立てる、ということ。
無垢材の家を建てたい。自然素材にこだわりたい。そう考えているあなたは、おそらくこんな問いを持ったことがあるのではないでしょうか。
「どの木を選べばいいのか」「節があるのは良くないのか」「やっぱりウォルナットやチークのような高価な木の方が、良い家になるのか」
設計の仕事をしていると、施主の方からこうした質問をよく受けます。そのたびに私は少し考えてしまいます。良い木とは何か?と。木材のカタログを眺めていても、その答えは出てきません。答えは、もっと別のところにある気がしています。

悪い木なんて、ない
付き合いの長い材木屋の鈴木圭太郎さんと以前、こんな対話をしました。木材の価値についての話の中で、鈴木さんがこう言ったのです。
「悪い木でも、使い方によっていい木になる。節があっても、曲がっていても、癖があっても——どこにどう使うかで、全然違う顔になるんです」
——材木屋・鈴木圭太郎
この言葉を聞いたとき、私はとても腑に落ちる思いがしました。設計者として長年住宅をつくってきて、感覚としてはわかっていたことが、言葉になった気がしました。
たとえば昭和初期の建築を見ると、当時の大工たちがいかに木と向き合っていたかがわかります。玄関の左右の壁に、大きな節のある板を意図的に配置したものがある。節を目に見立て、魔除けや睨みの意味を持たせたのです。これは単なる施工の話ではありません。素材を読み、解釈し、建築の中で遊ぶという行為です。
節は、今の住宅市場では欠点として扱われることが多い。規格品のフローリングに無節グレードが存在するように、均一で傷のない木が良い木とされる風潮があります。でも本来、節は木が生きてきた証です。枝が幹に取り込まれた痕跡であり、その木が何十年もかけて育った記録でもあります。どこに配置し、どう光を当て、どう文脈を与えるか。それ次第で、節を空間の主役にすることができます。
木の癖も同じです。まっすぐでない、反りがある、木目が複雑——それらはすべて、その木が育った環境の表れです。設計者として私が面白いと思うのは、そうした個性をどう建築の中に活かすか、という問いに向き合うときです。

高価な木を使えば、いい家になるのか
ウォルナット、チーク、オーク。名前を聞けば誰もが良い木だ、とイメージする樹種があります。確かに上品で美しい。木目の豊かさ、色の深み、触れたときの質感——どれも本物の魅力があります。
でも、高価な木を使えば良い家になるかと問われると、私は正直、そうとは言えないと答えます。
高価な木を選ぶことは、すでに市場が価値を決めたものを並べることです。それは悪いことではありませんが、設計者の仕事とは少し違います。設計者の役割は、まだ価値が定義されていないものに文脈を与え、その空間でしか生まれない意味をつくることだと、私は思っています。
以前、地元の大工さんの加工場を訪ねたとき、隅に積まれたままになっている丸太材に目が止まりました。シデの木です。やや癖があり、緩やかに曲がっている。使い道がなくてと大工さんは言いました。でも私には、その曲がりがむしろ魅力に見えました。
その丸太材を製材機で加工し、あるお宅のリビングの大黒柱として使ったとき——その材は決して高価ではなかったけれど、その家で最も存在感を持つ、唯一無二のものになりました。
市場価格では測れない価値が、そこにはありました。

その人に似合う木を、見立てる
家はブランド品ではありません。高価なものを選べば正解、というわけではない。それよりも大切なのは、この家に住む人に似合っているか、です。
施主の方と話すとき、私は言葉の奥を探るようにしています。言葉の奥にある、言葉にならない何かを聞こうとする。「木の温もりがほしい」という言葉の裏に、どんな暮らしのイメージがあるのか。「ナチュラルな感じ」という曖昧な表現の奥に、何が見えているのか。好きな音楽や、好きな器や、普段どんな服を着ているか。そういうことが、素材選びのヒントになることが少なくありません。
そうした対話の積み重ねの中で、素材が決まっていきます。柔らかな雰囲気を求めているなら桧や栗。明るい室内にしたいなら、木肌の細かなメープルも良い。静かで落ち着いた空間をつくりたいというなら、オークやウォルナットの重厚感が空間を引き締めます。杉は軽やかで柔らかく、肌に触れる場所——床や腰壁——に使うと、素足で歩くたびに温もりを感じられる。どの樹種も、使う場所と使う人によって、まったく違う表情を見せてくれます。
樹種だけでなく、製材の方法によっても表情は変わります。同じ木から取っても、板目と柾目では木目のリズムがまるで違う。厚みが増せば質感も重さも変わる。こうした選択のひとつひとつが、空間の印象を決めていきます。
これは材料の選定ではなく、設計行為そのものです。素材を選ぶことは、その人の暮らしを想像することと切り離せません。この木はこの人に似合うか——その問いを丁寧に繰り返すことが、設計者の仕事だと私は思っています。

材木屋との対話が、設計を豊かにする
材木屋の鈴木さんとの関係について、もう少し書きます。
材木屋に「次これを入れてください」と発注するだけでは、面白いものはできない——これも鈴木さんの言葉です。こういう空間をつくりたい、こういう表情にしたい、という設計の意図があって初めて、材木屋も考えられる。
ただ、それだけでもまだ足りないことがあります。鈴木さんの倉庫にストックされている材を眺めていても、どうしてもイメージに合うものが見つからないことがある。そんなときは、二人でせり市場や地元の製材所をめぐることもあります。

市場には、規格外とされた材も流れてきます。曲がりの強い材、癖の強い材——こうしたものは一般的な流通にはあまり乗らず、自分の足を使って探さなければ手に入りにくい。でも私には、そういう材にこそ惹かれることが多い。以前、市場で根元の大きく曲がった根曲がり丸太と出会いました。規格品としては値のつかない材です。でも製材加工して梁材として表しで使うと、その曲がりがそのまま空間のアクセントになりました。天井を見上げるたびに、その木が育った山の環境を想像する——そんな空間になりました。
素材を探す行為そのものが、設計の一部だと私は思っています。カタログから選ぶのではなく、足を運んで、手で触れて、対話しながら見つけていく。そのプロセスの中に、その空間にしかない何かが宿ります。良い無垢材のそばには、良い材木屋がいる。家づくりは、こうした信頼でできた関係の積み重ねでもあります。
無垢材の加工や木取りについては、こちらの記事で詳しく書いています。

良い素材とは何か
「自然素材だから良い」という言葉を、私はあまり信用していません。自然素材であることは、出発点であって、ゴールではない。無垢材を使えば良い家になる、というわけでも、もちろんない。大切なのは、その素材がその場所に合っているか。その建築に、意味を与えているかです。
良い素材とは、高価な素材のことではありません。その空間に置かれたとき、そこに住む人の暮らしに静かに溶け込み、時間とともに深みを増していく——そういう素材のことを、私は良い素材と呼びたいと思っています。
無垢材には、合板や工業製品にはない特性があります。それは、時間とともに変わっていく、ということです。新築のときの色と、10年後の色は違う。日の当たる場所と陰になる場所では、焼け方も変わる。傷がつくこともある。でもその変化こそが、その家が生きてきた証になっていく。住む人の暮らしが、少しずつ木に刻まれていく。私はそこに、無垢材の本当の価値があると思っています。
家を建てようとしているあなたへ。素材選びに迷ったときは、価格よりも前に、この木はこの家に似合うか。10年後、この木はどんな顔になっているか、という問いを立ててみてください。その問いが、きっと良い家への道を開くはずです。